(いりあいち)
【近代】
一村または複数村の住民が、用材・薪炭・肥料・秣など生活の上で必要な物資を採取する共有地。複数村の入会地では、自然環境の変化や世代の交代などにより山の境や利用をめぐる争論がたびたび発生し、解決のため村落相互の内済や公権力の仲裁が繰り返されてきた結果、複雑な権利関係や入業の慣行が形成された。このような経緯から、入会地に対する地元住民や村の権利意識は非常に強く、特に北設楽郡では村落間の関係性と密接不可分なものとして認識され、地域秩序を支える重要な要素として機能していた。なお、明治以後の土地政策・農林業政策では、入会地の解体が志向された。明治6(1873)年からの地租改正事業を通じ、人民または村による所有の確証がない土地はすべて官有地に編入する方針を打ち出し、入会地の官有民有区分を進めた。さらに、明治41年以後の部落有林野整理統合政策により町村有化の対象となったが、入会地の利用は昭和初頭まで広範な地域で行われた。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻175ページ、12巻813ページ