岩長遺跡

 

(いわないせき)

【考古】

高橋地区百々町の上位段丘面(挙母面)上に立地する弥生時代後期から奈良時代を中心とする遺跡。遺跡と沖積低地との比高は30mと大きい。平成9(1997)・10年度に西に張り出した舌状台地上の平坦面が広く発掘調査され、集落の景観や生業、古墳群との関係が明らかにされた。最も古い遺物では、旧石器時代・縄文時代草創期の石器が弥生時代以降の包含層中から出土している。弥生時代前期の土器棺墓3基、同後期の竪穴建物跡12基、古墳時代前期の建物跡1基が検出されている。さらに空白期を経て、古墳時代後期の竪穴建物跡38基と掘立柱建物跡7基のほか、およそ古墳時代中期~8世紀初頭までの岩長古墳群13基(石棺墓1基を含む)や、13世紀代の掘立柱建物跡2基と区画溝が発見されている。弥生時代の遺構は、低地を見下ろす台地西端部に分布し、竪穴建物はそれぞれ20mほど離れて営まれていた。焼失した1棟からは、被災直前に使われていたと推定される土器のセットとともに石鏃・土製紡錘車・赤色顔料の塊が出土している。弥生時代後期の集落は存続期間が短く、拠点集落であった高橋遺跡から一時的に分村した可能性が指摘されている。本遺跡は手呂銅鐸出土地から600mしか離れておらず、銅鐸形土製品が出土したことにより、高橋遺跡やその他の集落とともに銅鐸祭祀を行っていた地域集団の一員であったことが推測される。さらに、赤色顔料や豊田盆地で唯一の南信州系の甕の出土は、地域集団内にとどまらない外部との交流を伝える重要な資料となっている。古墳時代に関しては集落の変遷過程を捉えることができ、古墳との対応関係についても把握することができる。前期には1辺8mを超える大形の竪穴建物跡1基が台地の西端に築かれている。建物内からガラス玉が出土しているが、これは竪穴建物の上に築かれた後期古墳から混入した可能性もある。中期頃から台地の西側縁辺部に小規模な古墳が造営され始め、空白時期を経て、7世紀前葉には台地先端部に後期古墳の造営も始まる。隣接する竪穴建物跡からは鉄鏃・鉄製刀子・金環などの古墳に副葬されるものと同種の金属製品が出土していて、古墳造営と深く関係していることがうかがえる。具体的には6世紀後葉になると調査区の中央部から東側の台地奥側にも建物が建ち始める。竪穴建物の規模には差異が認められていて、中央部の群が有力であったと推測され、唯一の総柱建物跡も中央部で検出されている。7世紀前葉には集落が調査区全体に拡大している。建物跡は6つの群に分けられ、群と群の間には空隙地があり、耕作地などであったと推定される。建物跡は古墳が築かれた台地の西端部では少ないので、建物はほぼ同じ位置で何度も建て替えが行われており、土地利用に何らかの規制があったことがうかがわれる。掘立柱建物跡のほとんどは時期が不明であるが、中央部から東側にかけて多く分布している。7世紀後葉には集落の規模が縮小し、再び中央から東側にかけての建物群に収束する。この時期の遺物には石錘と多数の土錘があり、台地下の河川で漁労活動を行っていたことがうかがわれる。他にも湖西窯系須恵器や製塩土器・移動式カマド・鉄滓等の特徴的な遺物が出土している。


『新修豊田市史』関係箇所:1巻161・185・187・200・210・226・280・307・315・343・372・375・400・463ページ、19巻118ページ

→ 銅鐸