上野天王社  

 

(うえのてんのうしゃ)

【近世】

もと下中島村(岡崎市)、のち栗寺村(上郷地区)に移った下村家を神主とする。寛永年間(1624~44)には岡崎藩主の関与のもとで社領が確定され、慶安元(1648)年にはじめて将軍徳川家光が社領朱印状を発している。神主は、朱印状を所持する点では大名と同等の領主だと自認しており、「神領」から「役料」を得ている「下役」の「我が儘」に厳しい姿勢を示す。寛政4(1792)年には、朱印状を所持する近隣の神主らと共同し、百姓五人組からの離脱を幕府に出願している。慶応4(1868)年の王政復古の後には、朱印状の所持者にふさわしい処遇を求めた近隣神主作成の願書を入手、保存している。朱印状は、正確には必ずしも神主に与えられたものではなく、社領の所在と高について記すのみの文書なのだが、神主に与えられた文書と見なされ、彼等の共同行動を促す場合があった。神主は、京都の中下級公家である白川神祇伯家を本所と仰ぐことでも、ほかの百姓とは異なる地位を得ており、相続時の挨拶に京都に出向いたときに、白川家の当主から発せられた肉声を書き留める珍しい史料を残す。他方、排水路設営に関する天明4(1784)年の史料、金銭をねだる無宿人の取り締まりに関する安政3(1856)年の史料など、地域社会の動向を示す史料も、神主家によって大切に保存され、地域史を豊かに理解する手がかりとなっている。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻657ページ