(うさみきたろう)
【近代】
文久3(1863)年11月16日、挙母藩家老高木忠道の三男として出生。慶応3(1867)年2月11日に宇佐美家先代喜平の養子となり、明治24(1891)年1月に家督を相続した。中学校を卒業後に愛知医学校に入学、のち西加茂郡書記に転じ、明治23年11月には矢作川改修事業の重要性を訴えている。同24年9月に挙母郵便局長を拝命、以後16年にわたって勤務した。挙母町会議員を4期、挙母町長を3期務め、西加茂郡会議員、同議長なども歴任、挙母町や西加茂郡の発展に寄与した。一方、旧挙母藩士族としての活動も顕著で、明治23年8月に発足した挙母学校同窓会の幹事に渡辺善次や松下常見とともに就任し、明治27年8月5日の第5回挙母学校同窓会の席上では会員の共済に関わる建議を行っている。明治42年8月11日に除幕式を挙行した挙母城(七州城)址碑の建碑委員にも就任しており、大正4(1915)年5月29日に竣工した田中正幅頌徳碑の建設に率先して尽力した。町長を辞した後は公職を退き、旧三河挙母藩内藤家の家扶を務め、昭和19(1944)年2月17日に81歳で没した。趣味人としても知られ、宇佐美考案の釣針(鯉針)は「宇佐美針」として好評を博した。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻282・397ページ、12巻404ページ