牛枠騒動 

 

(うしわくそうどう)

【近代】

枝下用水の完成後、用水取水口の工作物(矢作川の寄洲から用水樋門までの石堤)をめぐる紛争が生じていた。西枝下村字平岩の取水口には石堤が設けられ、矢作川から用水路に水を取り込んでいた。しかし用水起業権をもつ西沢真蔵は明治28(1895)年までに、この石堤を廃棄して、寄洲の上端から対岸に向けて水刎ねのための牛枠(竹や木材の枠組みの中に石を詰めた工作物)を設け、また寄洲の下端から樋門に向けて蛇籠(竹で編んだ円筒形の籠の中に石を詰めた工作物)を設置して、用水へより多量の水を引き入れる改良工事を施した。この改良工事は無許可工事であったため、県は28年6月、これら工作物の撤去を当時の起業権者堀内信に命じた。この改良工事は下流の西加茂郡西山室村に取水口をもつ明治用水にとっては、取水量の減少を招く重大な問題であった。堀内は牛枠・蛇籠の撤去命令を受け入れる一方、新たな導水柵を設置する許可を県に求めた。堀内から起業権を受け継いだ皆川礼二も29年2月、寄洲の上端から左岸へ導水柵を設け、下端から樋門までの蛇籠の設置を出願した。これはすでに設置されていた牛枠と蛇籠の認可を求めるものであった。県は再度起業権を得た西沢に対して、無許可工事の工作物の撤去の上で、新たな工作物新設の願書を出すように命じた。西沢はこれに反発し、さらに牛枠を延長する工事を実施した。県は29年7月、この新設された工作物(牛枠・蛇籠)を取り払う強制執行を行った。こうした県との対立が続くなか、西沢の死去により息子の徳太郎から起業権の譲渡を受けた河村隆実は、明治33年になって河川工作物の設置の許可を県に提出した。32年10月県は河川取締規則を公布し、河川工作物の新築・改築・除去の際には設計書などを添付して許可を得るように命じており、これに基づいた設置許可申請であった。河村はあくまで現存の工作物の存置を求めていた。県はこれを認めなかったため、33年7月河村は牛枠取り払い命令を取り消すことを求めた訴訟を行政裁判所に提出した。行政裁判所は34年7月、河村の主張を退け、県の牛枠除去の命令は妥当であるとの判決を下した。この行政訴訟の原告の河村側には従参加人として碧海郡若園村の寺田武三郎ほか1240人余りの住民が訴訟に加わっていた。他方、被告の県側には従参加人として明治用水普通水利組合管理人高坂景顕(碧海郡長)が名を連ねていた。このように牛枠撤去をめぐる行政訴訟の背後には、枝下用水と明治用水それぞれの受益者の利害が深く関わっていた。この行政訴訟と牛枠の撤去をめぐる対立は当時の新聞にも大きく報じられ、行政裁判所の官員の現地調査の際には数千人の農民が繰り出したという記事もあった。県は判決に基づいた牛枠の撤去を河村に命じ、実施しなければ県が強制代執行すると通告した。この通告の後、現地では枝下用水関係者が集合し、緊迫した状況となったため、県は挙母や岡崎警察署などから多くの警察署員を動員した。7月23日、反対派農民が取り巻き、警察官に守られる厳戒態勢のなか県は牛枠を一部を残して撤去した。県は同時に樋門口の浚渫を実施し、今後水量が不足すれば相応の処置を取ると農民に約束した。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻329・459ページ、12巻172ページ

→ 枝下用水枝下用水普通水利組合西沢真蔵明治用水