宇都宮三郎  1834~1902

 

(うつのみやさぶろう)

【近代】

天保5(1834)年10月、尾張藩士神谷半右衛門の三男として名古屋に生まれた。藩校明倫堂に学び、その後尾張藩士上田仲敏のもとで西洋砲術を学んだ。嘉永6(1853)年、江戸藩邸の警護を命じられて上京、藩邸の砲台建設に携わり、また福沢諭吉ら洋学者と交わった。安政4(1857)年12月、任務終了の際、脱藩して江戸に留まり、着発弾の発明、鉄製ガルハニの製造などの研究を続け、また蕃書調所(後に洋書調所)の精錬方に出役した。維新後は開成学校中助教を経て工部省に移り、岩倉使節団の随員にも選ばれた。工部省では、セメント製造、耐火煉瓦製造、曹達製造、藍染色、電信柱の防腐(丹礬注入)等を手がけた。「化学」という用語(従来は舎密)は宇都宮の提案で使用されるようになった。明治15(1882)年6月、技官としては最高位の工部大技長となり、17年6月に退官した。退官後は、福沢諭吉の主催する交詢社に協力して殖産興業の発展に尽力した。愛知県では「士族生産談話会」設置の提言、東洋組の設立(予定した砲台建設の中止で煉瓦製造が中心だった事業は廃止)、知多醸酒業の指導、名古屋電灯創設などで郷里愛知の産業に尽くした。知多の醸酒業では宇都宮の指導した清酒「全勝」が、日清戦争の勃発で、出征軍の祝賀会で喜ばれ、爆発的に売れた。また、明治18・19年、旧名古屋藩士族に勧業資金10万円の貸与が決定した際、宇都宮が電灯事業を強く薦めたことで電灯会社創設が決まった。『築竈論』(明治16年)、『醸酒新法』(明治26年)、『宇都宮氏経歴談』(明治35年)等の著書がある。明治35年7月、68歳で逝去した。亡骸は神谷家の菩提寺、豊田市畝部西町の高正山幸福寺に、自ら考案した棺に入れて葬られた。