宇野家

 

(うのけ)

【近世】

岩倉村平藪の豪農。宇野家は、岩倉村を開いた草分け百姓と伝えられる。同家の初代は五郎兵衛で、2代佐五右衛門から酒造を始めた。同家は「酒屋」という屋号で、酒造業を中心に味噌・塩・穀類なども商うなど多角的な経営を行い、土地集積を行うとともに金融業も営んだ。酒は、江戸や伊勢へ販売する一方、岡崎など周辺地域への地売りも行っている。同家は、九久平村鵜ヶ瀬などに「車屋」という屋号で水車を所持したが、やがて分家がその経営を行うようになった。3代目は藤七郎(のち佐五右衛門)で、4代目の藤蔵が無嗣のまま死去したため、岩倉村林口の分家善兵衛の子善左衛門が養子となり5代目を継いだ。5代善左衛門の跡も岩倉村林口の五郎兵衛の子が養子となり、6代善右衛門となった。以後善右衛門が宇野家の通名となっている。なお、6代善右衛門の次男専吉は、岩倉村平古で分家独立し、廻船業などを営む「平専」の初代となっている。7代善右衛門親尚からは、岩倉村の領主である大島役所旗本石川家との関係が生まれてくる。親尚は、帯刀御免・帳付格・御用達となるとともに、大小姓格となり10人扶持を与えられている。親尚の嫡男與吉は、庄屋磯谷藤吉が退役した後に入札によって岩倉村の庄屋を務めているが、その後父の隠居に伴い家督を相続し、8代善右衛門親綱となった。親綱も、中小姓格となり10人扶持を石川家から与えられている。親綱の嫡男豊吉が9代善右衛門親當で、父の没後に帳付格となり10人扶持を与えられているが、宇野家の経営が悪化するのは彼の代からであった。彼は、経営の悪化を理由に御用達の休役や逼塞を願っている。親當は、自身の隠居と嫡男豊吉(豊司)の家督相続を願い出て認められ、豊吉が10代善右衛門親身となったが、親身の代も経営は改善されず、逼塞などを石川家に願う一方で、文久3(1863)年12月に、江戸積仲間株を含む酒造株を、国府村(豊川市)の久兵衛に譲渡している。同家は、大沼村の日野屋西田源八が所持する酒造株を1年間借用していたが、慶応元(1865)年10月になると酒造株を久兵衛から請け戻している。その後も同家の経営は改善されず、同4年3月になると同家は鵜ヶ瀬の水車の経営を小野村の嘉重へ貸し出している。宇野家は文化活動も行っていた。10代親身は、花火の流派である稲富流火術の門人竹里館主人として活動し、親身が主催した花火大会には、地元の岩倉村のほか、三河国や尾張国の人々が参加している。また、同家は、花火玉の作製依頼を請け、花火の作製道具の貸し出しも行い、稲富流の入門時に取次となっている。「竹里」という俳号を持ち、書状をやり取りして連句を詠むなどした。親身の弟徳次(徳治)も、俳人鶴田卓池の「諸国人名録」に俳号篤司として記載される俳人であった。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻361・384・570・579・645ページ

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