(うまのとう)
【近世】
西三河地域や尾張でみられる神社の祭礼における飾り馬(写真:現在の飾り馬、北一色町)の奉納。雨乞いの際に臨時に行われることもある。馬の背に標具と呼ばれる作り物や御幣を立てて豪華な馬道具で飾り立てた馬を神前に曳き出すもので、「オマント」と呼ばれる。「猿投合属」と呼ばれるムラの連合が奉納する猿投祭りの馬の塔は最大規模のものである。飾り馬の標具には、全国的にみても愛知県の一部にしかみられない等身大の木製人形があり、「献馬大将」「デク」などと呼ばれている。猿投祭りでは、三ツ久保村(小原地区)の「若侍」、愛知郡菱野村(瀬戸市)の「梶田甚五郎」、藤沢村(猿投地区)の「源義家」、寺部新屋町(高橋地区)の「楠正行」の人形がある。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻635ページ
【近代】
献馬を行う際には、尾張、三河、美濃の三国の180余りの村々が「合属」と呼ばれる組合を組織し、それぞれの組が日付を決めて参拝する。明治から大正期にかけての猿投合属に属する宮口の記録では、猿投神社の祭礼係から世話役の西宮口村に通知が出され、それを西宮口村から管下の各村々へ回章として通知していたことがわかる。この時期には、大喪や凶作などの影響で献馬を行わない年があった一方で、日清・日露戦争などの際には、戦勝祈願として献馬が行われている。また、1930年代に、国際社会の中で日本が孤立を深めるようになると、神道精神による挙国一致を図る名目で、献馬の必要性が叫ばれるようになった。
『新修豊田市史』関係箇所:12巻841ページ