(うめつぼいせき)
【考古】
矢作川右岸の挙母地区東梅坪町に広がり、後期旧石器時代~縄文時代、弥生時代~古墳時代後期、古代・中世にわたって人の居住が認められる複合遺跡。市域有数の規模が大きく歴史情報の多い遺跡である。籠川が矢作川へと注ぎ込む合流点近くの下位段丘面(籠川面)東端に位置し、標高37~40mで南側の沖積低地との比高が最大約3mの好地に築かれている。また、矢作川の右岸縁かつ籠川の右岸縁に位置し、矢作川を下れば三河湾、上れば伊那谷、そして籠川を上れば尾張へと通ずる河川および陸上交通路の結節点に当たっている。遺跡周辺では古くから土師器や須恵器などが採集されてきたが、遺跡の実態が明らかにされたのは、昭和60(1985)年の東梅坪地区土地区画整理事業に伴う試掘調査からである。以降、平成17(2005)年までに12次にわたる発掘調査が行われ、調査総面積は2万2220m2に及んだ(写真:第6次調査区)。人がこの地に住み始めたのは後期旧石器時代にまでさかのぼり、チャートや黒曜石製のナイフ形石器8点と石核、後期旧石器時代終末期の細石核11点と20点以上の細石刃が出土している。縄文時代は石鏃や石匙などの石器が少量出土しているだけであるが、弥生時代~古墳時代になると、籠川流域では保見町伊保遺跡と並ぶ大規模な集落に発展する。集落は弥生時代中期末に営まれ始め、後期~古墳時代前期には大型の溝を伴う集落となった。大溝SD406は幅4.2~5.5mで深さ1.2~1.6m、第6次調査区SD201は幅3.0~3.5mで深さ1.5~1.8mと、ともに大規模で、断面Ⅴ字形を呈している。この大溝は従来、集落を囲む環濠と説明されてきたが、集落南側の水田に導水するための灌漑施設であった可能性も指摘されている。また、水害防止の意味も大きかったとみられ、籠川が矢作川に合流する地点では、矢作川が氾濫した場合、籠川にバック・ウォーターが生じ、水が矢作川下流側の梅坪遺跡のある籠川右岸側へと溢れ出すおそれがある。実際に発掘調査でもSD406とSD201の埋土や古墳時代中期の生活面から矢作川が運んだ洪水堆積層が確認されている。交通至便な立地の反面、水害に遭う危険性も高い集落であった。また、洪水等による梅坪遺跡の停滞期には伊保遺跡の遺構と遺物数が多くなるという指摘もあり、籠川を介した人の移動や集落の動態変化をみることもできる。遺跡では古墳時代後期の6世紀後葉~平安前期の9世紀後半にかけて、竪穴建物と掘立柱建物で構成される新たな集落が形成されていった。7世紀~8世紀初頭にかけては、企画的に配置された総柱の掘立柱建物群や首長居宅を思わせる大型の総柱建物などが建ち並ぶ。7世紀前半の角杯や7~9世紀代の229点にも及ぶ製塩土器、9世紀後半の官人が使用したとみられる銙帯金具や刀子などの鉄製品、陶製の円面硯、「人」「四万」「□子女」「衢」などの文字が墨書された多数の須恵器の出土は、本遺跡が交通の要衝を抑えた有力な古代集落であり続けたことを物語っている。
『新修豊田市史』関係箇所:1巻34・162・222・287・290・387・402・404・457ページ、2巻43・104・442ページ、18巻22ページ、19巻88ページ、20巻52ページ、12号104ページ