裏千家流 

 

(うらせんけりゅう)

【近世】

茶道の流派の一つ。千利休の死後その茶道を引き継いだ表・裏・武者小路の三千家の一つであり、「今日庵一世」を称した利休の孫宗旦の四男宗室が創始した。幕末の11代千宗室玄々斎(1810~77)は、三河奥殿藩松平乗友の子であり、尾張藩重臣寺部領主渡辺規綱は兄にあたる。歴代尾張藩主が表千家流であるなか、12代藩主徳川斉荘は玄々斎から裏千家流の免許相伝を与えられ、斉荘側近の藩士も裏千家流に入門するなど、玄々斎は尾張藩の茶道にも影響を与えた。玄々斎は、明治5(1872)年には、外国人向けの立礼式を発案し、『茶道の源意』を発表して茶道の鑑札制度を改めさせた。京都の角倉家から養子に入った12代又玅斎は、明治期の混乱によって経済的に苦境に陥った裏千家の新たな経済基盤を築くため、足助の有力町人である紙屋鈴木重篶ら地方の有力門人らの協力を得て「保千会」を組織して、地方の門人の獲得を図った。12代円能斎は、明治29年まで6年間にわたって東京に居住し、京都に戻った後も茶道の教本や機関誌の発行を通じて茶道を普及させることに尽力した。また、女学校教育に茶道を取り入れて女性の門人数を飛躍的に増やした。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻589ページ

→ 紙屋鈴木家渡辺規綱