雲興寺 

 

(うんこうじ)

【近世】

尾張国、現瀬戸市域に所在する曹洞宗寺院。永享2(1430)年に五山僧の化元真毓が曹洞宗の天先祖命に住持職および寺領を譲渡した勝光寺を前身とする。寺領は、天正11(1583)年に織田信雄から「いのこし郷」を与えられる。ついで尾張国主となった豊臣秀次が文禄4(1595)年に没落すると、豊臣秀吉から現在の市域にあたる「三河国高橋郡本徳村」の1村139石余を与えられ、徳川家康以下、歴代将軍の朱印状によって、同じ寺領が保証され続ける。寺領本徳村(猿投地区)の地名表記は、寛永13(1636)年の徳川家光寺領朱印状まで「三河国(参河国)高橋本徳村」であったが、寛文5(1665)年の徳川家綱寺領朱印状から「参河国加茂郡高橋本徳村」へと変化し、「加茂郡」が正式に表記されるようになる。江戸時代の雲興寺は積極的に寺領の管理を行っていた。例えば安永3(1774)年から4年にかけて、本徳村と近隣との間で耕地の境界争いが生じると、尾張藩は百姓同士の争いにとどめておくべきだと忠告したが、雲興寺は、将軍より直接与えられている寺領の保全は寺の責務だと反論し、「笹引」などの信仰儀礼を行い境界画定に努めている。他方で、江戸から秤改めのため守随氏が三河国に出張してくると、雲興寺は寺自体は尾張領に属していると強調し、受け入れを拒否している。必要に応じ、尾張および三河への帰属を使い分けているのであり、江戸時代における「国境」のあり方を示す興味深い素材である。雲興寺と市域との関係は、猿投社家についてもみられる。宝暦7(1757)年に猿投社家が死去した際、雲興寺は代々の旦那寺として葬儀を執行し、尾張藩家臣出身の妻の要望により院号を付与しているが、遺体の剃髪はしないなど、神職ならではの特徴がみられる。市域に所在した雲興寺末寺正林寺と広見村との間で紛争が生じた際には、訴訟が雲興寺に提起されている事実も確認できる。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻706ページ