永正三河大乱

 

(えいしょうみかわのたいらん)

【古代・中世】

永正3(1506)年に今川氏親・伊勢宗瑞率いる軍勢が三河に侵入して以来、同6年までその余波が続いた三河における戦乱状況をいう。同9年、安城松平家三代信忠は称名寺(碧南市大浜)に対し「永正三年寅より巳之年」「乱中之敵味方打死」の人々の弔いのために毎月16日に踊念仏を催すよう命じた(「巳之年」は永正6年)。この今川軍の三河侵入は、幕府政治の動向と連動している。京都において幕府を仕切っていた細川政元の求心力が永正元年頃より低下し、幕府内に分裂が生じた。これに乗じて明応2(1493)年に政元によって将軍の地位を追われて周防国大内氏のもとにいた足利義材が、永正4年から将軍復活を目指し上洛を開始した。今川氏は当時、義材に通じていた。永正3年に三河に侵入した今川氏親・伊勢宗瑞軍は今橋城(豊橋市)の牧野氏を攻め滅ぼしたのち、おそらくその年のうちに東海道沿いに西三河に進出し、大樹寺(岡崎市)に陣を取り、岩津の松平氏を攻撃した。大樹寺はこの戦いで大破した。『三河物語』の記述通りとすると、この間、岡崎松平家などの抵抗を受けた形跡が認められない。一方、今川氏親は三河侵攻に先立ち、すでに臣従させていた作手(新城市)の国衆奥平氏に対し、今川軍の三河侵入とともに別動隊として三河の山路(おおよそ国道301号沿いのルートと推定されている)を西に進んで細川(岡崎市細川町)に一城を立て上野(上郷町)への進路を確保せよと命じている。岩津挟撃を意図した指示と考えられ、三河での攻撃対象として岩津松平氏が当初から念頭にあったことを示している。なお、大給の地は奥平氏が細川まで西進するルート上にある。大給松平家は明応2年に義材が将軍を追われた当時から義材との関係が深かったと考えられている。永正5年に義尹と改名していた義材が将軍に復活すると、いち早く今川氏は遠江守護として認められ、同年のうちに今川軍勢は三河から撤退した。これは義尹改め将軍義稙の下に幕府体制が回復すると、三河守護でない今川氏の三河駐兵の名目が立てられなかったからである。今川氏撤退後も、翌年まで三河国内諸勢力間の武力衝突が続いた。この大乱によって岩津松平惣領家は大きく打撃を受け、その分家であった安城家が旧岩津一門の中心となり、大給松平一門や岡崎松平一門と並ぶ勢力に成長した。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻463ページ