永福寺本堂・山門

 

(えいふくじほんどう・さんもん)

【建築】

保見町(保見地区)。寺は、黄檗宗、創立は大本山萬福寺が寛文元(1661)年明僧隠元により宇治に建てられた後、天和3(1683)年伊保城主本多忠晴が寺地を寄進し、黄檗山2世木庵を開山とし、その弟子碧峯により同家の菩提寺として開かれた。江戸中期には本多家3代により本堂、山門、庫裏、禅堂、開山堂、祀堂、位牌堂、霊屋等が整えられたが、延享3(1746)年3代藩主本多忠如が奥州泉藩へ転封すると寺は荒廃し、本堂、方丈、庫裏等を残すのみとなった。その後、天明2(1782)年、巨勢求馬之助利高が復興し、寛政2(1790)年に宇治の黄檗山萬福寺末となり、安政4(1857)年に現本堂(写真)が再建された。本堂は、桁行3間、梁間4間半、寄棟造、桟瓦葺、仏殿形式である。間取りは、前面1間を吹き放し、その後方に大きな内部空間を造り、中央に太い4本柱を立て、その奥に須弥壇を造り、この両脇に脇仏壇さらに堂両側面に下屋を加え、内部はすべて瓦四半敷とした。柱は総面取角柱とし、堂正面では柱を礎石・角型礎盤上に立てて柱間3間とし、柱上では大虹梁を3スパンに渡し、繋虹梁を後方に通し、上部に棹縁天井を張り、柱上に三斗を置き、二軒半繁垂木を出している。堂前面では柱間3間にいずれも内開きの桟唐戸を吊り、柱間には土台、差鴨居を通し、内法上部に白漆喰を塗る。堂内部では、1尺強の太い4本柱を角型礎盤上に立て、柱上に大虹梁を渡し、外側柱に繋梁を渡し、上部に小壁を入れて棹縁天井を張り、柱間下方はすべて開放し、一つ空間とする。市内唯一の黄檗宗の本格的な仏殿である。山門は、切妻造、桟瓦葺の薬医門。主柱間に冠木長押を渡し、主柱と控柱との間に貫を通し、柱上に頭貫を通し、これを雄梁として下段に雌梁を加える。斗栱は大斗に肘木を十字に組み、中備蟇股、軒一軒疎垂木とし、妻は虹梁・蟇股をみせる。建立年代は、様式的に本堂と同様に幕末頃とみられる。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻150ページ