(えびなくにたか)
【近世】
海老名家は、宝暦7(1757)年に挙母藩に推挙された邦武以来、四代にわたり無外流剣術を極めて藩の剣術師範を務めた。代々三平と称し、「挙母二万石に過ぎたるものは、大手御門に海老名三平」と謳われた。四代三平邦飛は、川西家に婿入りし後に挙母藩大参事となる川西徳化の実兄にあたり、嘉永5(1852)年に海老名家の家督を継ぐ。北辰一刀流千葉周作の門にも入り、その名声から尾張藩明倫堂の師範役をも兼ねた。邦飛が着用したとされる兜の鍬形中央の剣には、「北辰妙見不動王」の七文字が刻まれている。明治維新に際しては藩中の勤王派として活躍し、明治2(1869)年には挙母藩庁公廨所の権小参事、同4年には廃藩置県後の挙母県の権大属を務めた。その後、一家で移り住んだ花本(花本町)の居宅は現在、豊田市民芸の森に移築されている。足助地区紙屋鈴木家資料には、明治5年3月の額田県第四大区第二小区(猿投、保見・石野地区の一部)の戸長として「花本村 海老名三平」の名が記されているため、これ以前に移り住んでいたことが分かる。明治19年には次男龍四が居た東京の本所石原(墨田区)に転じた。墓は神龍寺(朝日ケ丘)にある。長男弥雄太郎は新潟県長岡市で代言人(弁護士)として、次男龍四は国産耐火煉瓦の製造に活躍。画才に富んだ三男明四は志賀重昴『日本風景論』の挿図を描いた後、東京美術学校(後の東京藝術大学)で西洋画を学び、明治美術会に所属した。曹洞宗第一中学校などに図画教員として勤務した後、大正元(1912)年に画工として東北帝国大学に招かれ、生物学科の助手となった。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻28ページ