海老名龍四  1868~1902

 

(えびなたっし)

【近代】

明治期の窯業技術者。明治元(1868)年、挙母藩剣術師範海老名邦飛の次男に生まれ、廃藩後に家族で花本(花本町)に移住。明治16年の挙母学校高等科を卒業とともに同校助手となるが同18年に退職。兄弥雄太郎を頼って新潟に赴いた後、翌年春には上京し、順天求合社を経て東京職工学校(後の東京工業大学)陶器玻璃工科に入校、同23年に卒業した。大阪五成舎に招かれ耐火煉瓦の製造に当たるが数か月で東京へ戻り、本所錦糸堀(墨田区)に耐火煉瓦の工場を設立、古河鎔銅所の反射炉用耐火材料などを製造した。苦難を重ねながら原料の探索や販路の開拓にも取り組んだが、資金が尽きて工場を閉鎖。この工場では父邦飛や弟明四も働いていたという。明治26年に西村勝三から品川白煉瓦製造所に迎えられ活躍の場を得ると、翌年には国内初となる耐火煉瓦の特許を取得。特許第2339号には「特許権者 海老名龍四」とある。明治29年からは、政府が製鉄所建設のため欧州に派遣した調査団に加わり工場などを視察。翌年帰国すると、耐火煉瓦の製造研究にさらに邁進するとともに、ドイツから持ち帰った原料に似た珪石を発見するために東奔西走し、大きな成果を挙げた。龍四は実質上の技術長として、品川白煉瓦製造所の基礎を築いたのである。明治34年12月に挙母に一時帰郷し、当時は貴重であった自分の自転車を駆り原料の探索に走り回ったところ体調を崩し、東京に戻った翌年1月に33歳の若さで逝去した。東京都品川区の東海寺大山墓地には、2010年代まで耐火煉瓦で作られた龍四の墓があった。また、神龍寺(朝日ケ丘)にも墓碑がある。


→ 海老名邦飛旧海老名三平宅