円空仏

 

(えんくうぶつ)

【美術・工芸】

円空は寛永9(1632)年美濃国に生まれ、寛文3(1663)年に初めて造像をしている。元禄8(1695)年に入寂するまでの30余年間、諸国を巡歴し、12万体の仏像を刻したと伝え、現在5400体余りの円空仏が確認される。名古屋市中川区荒子町・荒子観音寺には1256体の円空仏が現存し、まさに円空仏の宝庫である。その中で特に注目されるのが、木端仏と千面菩薩である。木端仏の実体は、背銘により『法華経』普門品にある「観音菩薩はその人にふさわしい姿になって衆生を救いにくる」という観音三十三応現身である。木端仏は、その呼称の如く捨て去るような木片に、最小限の刃跡で仏像にするという円空仏の特質を最もよく示している。千面菩薩という尊名は仏教辞典に載っておらず、円空が名付けたと思われる。三十三応現身の救いをさらに拡大して千応現身として彫ったと考えられる。千面菩薩1024体が入れられていた厨子の表には「南無大悲千面菩薩」、裏に「是也此之クサレルウキ々トリアケテ子守ノ神ト我は成なり」と書かれている。歌の内容は「どのような朽ちた木からでも、私は庶民を守る神仏像を作ります」と解釈できる。造像に際しての、円空の材に対する考え方、造像の目的が率直に詠まれている。円空にとっては、あらゆる木が造像の材になった。富山県富山市蟹寺地区は、江戸時代7戸の集落であった。ここには白山神社と慈眼院という社寺がある。白山神社の御神体は円空の神像2体であり、慈眼院には円空の善財童子と善女龍王が安置されている。蟹寺地区には小観音像7体が現存する。円空はすべての民家に観音像を彫り与えたのである。神社があれば神像を、寺院には仏像を、民家にはそれぞれ小観音像を。円空が造像の対象としたのは、あらゆる場所であり、あらゆる像であった。市域では、旭地区の太田町内会の阿弥陀如来像(円空仏)と、豊田市民芸館蔵の本多コレクションの円空仏が知られる。

『新修豊田市史』関係箇所:21巻110・127ページ

→ 太田町内会阿弥陀如来像(円空仏)本多コレクションの円空仏(豊田市蔵)