圓楽寺本堂・山門・鐘楼・経蔵

 

(えんらくじほんどう・さんもん・しょうろう・きょうぞう)

【建築】

若林西町(高岡地区)。当寺は、永正年間(1504~21)頃に本多四郎左衛門が、この地に草庵を結んだのが始まりとされ、実如から方便方身尊像が下賜されている。その後、寛永8(1631)年に上宮寺から順慶が入寺して再興したので、中興開基となり、順慶が第1世となった。天和3(1683)年圓楽寺の寺号許可、木仏認可されて梵鐘を鋳造した。4世租了の代、宝暦7(1757)年に本堂を再建、同12年に土蔵を建立した。その後、文化6(1809)年に現山門が再建された。現本堂の建立は、寺記によると、天保六年二月十七日釿初め、十一月に古堂(現教照寺本堂)を拂う。翌七年二月初め地突初め、二十七日終る。八月に立柱、十月に終わるとあり、また、棟札には嘉永元(1848)年再建とあることから、工事が竣工するまでに12年ほどかかったことになる。本堂(写真)は、入母屋造、本瓦葺、向拝1間(実長3間)付で東面して建てられている。本堂の規模は、桁行実長10間、梁間実長9間半の江戸時代末期の大型の真宗本堂である。内陣は来迎柱を用いる後門形式をとる。柱は来迎柱2本と内陣廻りの6本を円柱とするほかは面取角柱とする。間取りは、前よりの奥行3間を外陣、次奥の1間を矢来内とし、外陣の正側三方には、1間幅の広縁と半間幅の擬宝珠高欄付の落縁を付け、正面中央に向拝と木階4級を設ける。堂後半は中央の間口3間を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間半の飛檐の間、堂背面には幅1間の後堂を配している。この本堂は、幕末に建立されたものだが、塗装はほとんどなく、欄間・蟇股・支輪などの彫刻が見どころで、角柱を多用するなど古式な佇まいをみせる。幕末になると、一方でこのような復古的な本堂が出現する。また、内陣前の欄間裏板には「尾陽名古屋住 彫工 早瀬長兵衛作」の墨書が残る。山門は、棟札によれば文化6年の建立である。この門は中型の四脚門で切妻造、桟瓦葺、軒二軒半繁垂木で、両脇に桟瓦葺の袖壁を付ける。鐘楼は、寺伝によれば文化4年の再建という。単層、入母屋造、桟瓦葺の建物で、切石乱石積の高い基壇上に建つ。経蔵は、棟札によれば文政7(1824)年冬に、中田村の大工柴田善右衛門によって建てられた。経蔵は方3間、宝形屋根、桟瓦葺、露盤・請花・宝珠付で、正面に1間の向拝を付す。内部は書棚を造って一切経を収めている。


『新修豊田市史』関係箇所:22巻92ページ