応仁の乱 

 

(おうにんのらん)

【古代・中世】

応仁・文明の乱ともいう。応仁元(1467)年に、室町幕府の諸大名が将軍の継嗣や大名家の家督争いをめぐって東軍と西軍とにわかれて京都で戦いを開始し、文明9(1477)年まで続いた内乱をさす。6代将軍足利義教は守護家の家督相続に介入したため、その守護家内では不満が募り、内紛にいたる要因が生じた。嘉吉の乱で足利義教が死去すると、畠山氏、斯波氏など有力守護家では家督をめぐる内紛が表面化していき、2派に分かれて対立することになった。その対立する2派は細川勝元か山名持豊(宗全)のいずれかに結びつき、勝元と持豊の覇権をめぐる争いになっていくとともに、さらに足利義政の相続問題が関わり、弟の義視と子の義尚の争いも結びついた。応仁元年正月に畠山義就と同政長による戦いがなされると、同年5月にそれぞれに味方する大名が軍勢を京都に集結させ、全面的な戦いとなった。東軍は細川勝元に味方する勢力であり、西軍は山名宗全を支持する勢力である。京都は戦場となって多くの建造物が焼失し、戦乱を避けて地方に逃れる貴族もみられた。戦局は一進一退を繰り返すも、地方にも戦いが拡大した。文明5年に細川勝元、山名宗全が死去すると膠着していき、文明9年に大内政弘が下国すると、西軍の諸大名も下国が相次ぎ、戦いは収束した。この戦乱を通じて、将軍家の権威は弱まり、幕府が守護を通じて地域支配をする幕府-守護体制は変容し、幕府は山城を中心とした畿内政権としての性格を強めることとなった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻397ページ