(おおしまやくしょ)
【近世】
旗本石川家が知行所支配のために大島村(足助地区)に置いた役所。石川家初代貞當は、美濃国大垣藩主石川忠総の四男で外祖母の苗字である上野を名乗った。彼は寛永9(1632)年に書院番に召し出され旗本となり知行を与えられていたが、慶安3(1650)年、父忠総が死去した際に、三河国加茂・額田両郡において知行7000石が分知された。この時に大島役所が置かれたものと思われる。貞當の跡を継いだ義當の時に苗字を上野から石川に戻している。以後、総乗・総因・総為・総恒・総武・総登・総邦・総範と続き、明治維新を迎える。大島役所は5つの曲輪に分かれ、門前に虎口が設けられており、近世城郭と同様なコンセプトで設計・構築がされている。時期により多少違いはあるが、役所には代官・目付・手代・同心・中間が置かれていた。文化9(1812)年には領民が代官罷免などを要求する騒動が発生し、代官が出奔する事件がおきている。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻61・500ページ