(おおはまじんや)
【近世】
駿河国沼津藩水野家が、三河国の領知支配の拠点として大浜村(現碧南市)に設置していた陣屋。沼津藩は、安永6(1777)年4月に、大浜藩主水野忠友が側用人へ昇進し城主格となり、11月に沼津へ築城を許されたことで成立したが、大浜村を中心とする三河国の領知は従来通りとされ、引き続き大浜陣屋が三河の飛び地支配を担うこととなった。その後、忠友は数度加増されたが、市域では安永7年に花園村と中根村が、天明5(1785)年に若林村と西田新郷の一部が沼津藩領となった。文政4(1821)年には、藩主水野忠成が加増されたのに伴い、市域の土橋村・東鴛鴨村・西鴛鴨村・宮口村の一部も沼津藩領となっている。慶応4(1868)年5月、藩主水野忠敬が上総国菊間村(現千葉県市原市)などへ移封されたが(菊間藩の成立)、市域の村々を含む三河国の飛び地支配はそのままとされ、大浜陣屋を通じた水野家による支配は、明治4(1871)年7月の廃藩置県まで続いた。陣屋には、郡代・手代・郷方といった役人が配置され、彼ら陣屋詰役人が三河国の領知支配を担った。また、大浜陣屋は、花園村の寺田家ら領内の有力者を、御用達肝煎・御用達・御用達並に任命するとともに、扶持や帯刀御免などの特権を与えた。彼ら御用達商人は、調達金や積金、陣屋主催の金融講への掛金を藩に上納することで、藩財政の一端を担っている。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻380ページ