(おかざきでんとう)
【近代】
岡崎電灯は、杉浦銀蔵(呉服商)、近藤重三郎(醸造業)、田中功平(旅館経営)の岡崎の事業家3氏による合資会社(資本金3万円)として、明治29(1896)年10月に岡崎町に設立された。東加茂郡と額田郡の境を流れる郡界川に、矢作川筋最初の発電所として、明治30年7月に岩津発電所(50kW)が運転を開始し、岡崎町に送電した。発電所の設計、監督は水力技師大岡正が担当した。地元民との交渉、水路の買収は近藤重三郎、測量・工事の監督は田中功平、そして資金の調達、物資の供給は杉浦銀蔵と、創業者3人で分担して事業を進めた。新規事業ヘの不安から資金調達に苦労を伴ったが、早川久右衛門(八丁味噌製造)の協力で切り抜けることができた。明治33年12月には52kWを増設し、日露戦争後は水力ブームに乗って発展し、明治40年7月、資本金50万円の株式会社となった。巴川支流神越川の水を利用する東大見発電所の運転開始(明治44年3月)をきっかけに、西三河一帯への広域的供給事業への展開をはかり、西三河地方の中心的電力会社となった。大正3(1914)年6月神越川筋に賀茂発電所(450kW)、大正8年10月、足助大橋下流に足助発電所(1565kW)を建設したが電力はたちまち消化され、次いで矢作川本流に百月発電所(大正15年3月)、大浜火力発電所(大正13年2月)等を建設した。また碧海電気を大正9年3月に、平坂電気を大正11年2月にそれぞれを合併し供給区域も西三河全域へと広げた。昭和5(1930)年8月、電力統制機運の高まる中、東邦電力の豊橋区域と統合し、東三河、西三河から東濃地域を供給区域とする中部電力(岡崎)となった。写真は岡崎電灯開業にあたり子爵品川弥二郞から寄せられた祝辞。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻456ページ、12巻144ページ