岡崎藩

 

(おかざきはん)

【近世】

三河国岡崎城に藩庁を置いた藩。関ヶ原の戦い後に岡崎城主田中吉政が筑後国へ転封し、慶長6(1601)年に代わって本多康重が5万石で入封後、慶長8年の江戸幕府開府に伴い立藩された。本多家は、以後康紀・忠利・利長と続く。正保2(1645)年に利長が遠江国横須賀に転封となると、水野忠善が5万石で入封する。水野家は、その後忠春・忠盈・忠之・忠輝・忠辰と続き、宝暦12(1762)年、忠任の代で肥前国唐津へ転封となるまで岡崎藩主の座にあった。代わって下総国古河から松平康福が5万4000石で入封するも、明和6(1769)年に石見国浜田に転封。領地を交換する形で浜田から本多忠粛が5万石で岡崎藩主となる。以後、忠典・忠顕・忠考・忠民と続き、忠民の代で明治維新を迎えている。市域では慶長9年時には小原・上郷地区の大部分と、藤岡地区の一部が岡崎藩領であった。この範囲は寛延元(1748)年時では、稲武・足助地区に多少の増加がみられるが、それ以外はほぼ変化がみられない。天保9(1838)年時には小原・藤岡地区の岡崎藩領は姿を消している。天保7年の加茂一揆にあたっては、岡崎藩はその鎮圧にあたり中心的な役割を果たした。また、明和6年に岡崎に入封した本多家は、足助役所の旗本本多家と一族であった。そのため、足助役所本多家からの求めに応じ庇護を加えることもあった。元治元(1864)年の天狗党の乱にあたっては、独自で防衛体制を取れない足助役所本多家の要請に応えて藩兵を派遣している。明治維新期には尾張藩や吉田藩などと勤王誘引に従事した。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻6ページ