小笠原氏

 

(おがさわらし)

【古代・中世】

出自は甲斐源氏の庶流小笠原泰房が三河に居住したとの説、小笠原惣領家の長氏の弟長直の流れとする説などがあるが、詳細は未詳。小笠原長房は足利尊氏の近習であったが、観応の擾乱で足利直義方に属したため、のちに一色範光の家臣となった。一色範光の妻は小笠原氏出身であり、長房は若狭守護代を務め、尾張国知多郡を領した。長房の弟長身は三河守護又代を務めた。応永4(1397)年に長房は死去し、子の長春が継いだが、応永13年に一色詮範が没してその子満範(道範)が家督を継ぐと、一色氏被官内の対立が深刻になり、同年10月、小笠原長春父子が京都の一色道範の屋敷に召し込められ、丹後国石河いしこに移された。長春の舎弟安芸守とその一族、若党らが三河国で蜂起をしたが、同15年12月26日に討たれた。翌年3月に長春父子は石川城で切腹し、三河守護代は氏家氏に変わったとみられる。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻365ページ