桶狭間の戦い 

 

(おけはざまのたたかい)

【古代・中世】

永禄3(1560)年尾張国桶狭間で起こった織田信長と今川義元との戦い。当時駿河・遠江を領した今川義元は三河国へ進出し、同国の国衆らも配下に従えていた。さらに、尾張・三河国境域にも進出し、尾張国の沓掛・大高・鳴海城を手に入れた。一方、ほぼ尾張を統一して勢力拡大していた信長は、大高・鳴海両城を攻めるため、周辺に付城を築き相対した。永禄3年5月、今川義元は大軍を率いて駿河を出発し尾張に向かう。今川の兵数は、史料には1万余から4万5000とさまざま記されるが、何れも同時代史料ではなく、定め難い。従来この出兵の目的は上洛説が唱えられていたが、現在はこの説は否定的で、尾張攻撃説や領土拡大説、国境地域の確保説など非上洛説が主流である。さらに、永禄元年には今川方と反今川の国衆らが戦った寺部合戦も起こり、三河国では反今川の国衆の存在もあり、未だ完全に制圧していない状況であった。今川軍は沓掛城に入城し、先勢の松平元康(徳川家康)らは大高城に兵粮を入れ、付城の丸根砦らを攻撃する。なお、今川方は寺部・梅坪に放火させて付城から援軍を出させて、そのすきに兵粮を入れたという記録もある(『三河記』御庫本)。義元は沓掛城から大高城に向かい、桶狭間山で休息し陣をひいた。一方、信長はこうした今川軍出兵の連絡を受け清須城を出発する。熱田社に参拝後、鳴海城付城の善照寺砦から中島砦に入り、そして桶狭間山を攻撃し義元を討った。従来信長の攻撃は、迂回をしたルートで急襲したと考えられていたが、現在は否定され正面攻撃説が有力である。戦い後松平元康は、今川氏のもとに戻らず岡崎城に入り三河支配に乗りだす。また今川方と反今川の国衆らの戦いはその後も続き、梅坪・八桑・武節などでも戦いが繰り広げられた。大給松平氏や足助鈴木氏など、戦い後今川氏から離反する国衆らもでるなど、以後今川勢力は西三河から退いていく。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻570ページ

→ 今川義元