長田忠致  生没年未詳

 

(おさだただむね)

【古代・中世】

平安時代末期の武士。長田氏は桓武平氏の末裔で、11世紀前半の頃、伊勢平氏と対立し、尾張に逃れた家であるという。天皇家領荘園のひとつである尾張の野間内海荘の荘官として活動していた。忠致は平治の乱(1159年)に敗れて東国に逃れようとした源義朝をだまし討ちにしたとされる。しかし、当時の尾張国は平清盛と手を結んだ藤原惟方の知行国から清盛の実質的な知行国に代わる時期であり、忠致自身も天皇家領荘園に属する武士であった。国主や荘園領主に敵対した「謀反人」の義朝を討つことは、正当な職務である。なお、義朝が忠致を頼ったのは、長田氏が知多半島を拠点として東国につながる海上交通に深く関わる一族であったためであろう。豊田市内の司町に長田氏の館跡と伝承される遺跡があるのも、矢作川の水上交通が太平洋海運とつながっていたことを反映していると思われる。その意味で、中世の市域の社会的経済的状況を考えるための、興味深い人物の一人である。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻209ページ