織田信雄  1558~1630 

 

(おだのぶかつ)

【古代・中世】

織田信長の次男で、信長没後の尾張国の統治者。永禄12(1569)年南伊勢の国司北畠氏を攻めて和睦をした信長は、当時茶筅(ちゃせん)といわれた幼き信雄を養子として入れる。信雄は元服して北畠具豊ともとよを名乗り、御本所とも呼ばれた。天正3(1575)年北畠家を継承し、翌4年北畠一族を粛清し、南伊勢・伊賀両国を制圧した。天正10年本能寺の変後の清須会議で、織田家代々の領国尾張を得て再び織田姓に戻る。現市域の矢作川右岸は三河国内でありながら織田領で尾張国高橋郡と称されていたが、高橋郡はそのまま織田信雄領として引き継がれた。徳川家康は信雄に三河国内の織田領の返還を求めるが、それはかなわなかった。信雄家臣の知行地を記した『織田信雄分限帳』にも高橋郡が記されている。信雄は、羽柴秀吉・丹羽長秀らの宿老により織田家の当主にたてられ、同11年安土城に入城。その後弟織田信孝、柴田勝家を討つが、翌12年秀吉と対立し尾張に戻る。そして小牧・長久手の戦いで家康とともに秀吉と戦う。秀吉と和睦後は尾張国・北伊勢五郡を領して豊臣第一の大名となる。天正15年には正二位内大臣に叙任された。尾張国内の統治では、天正12年頃に貫高制で検地を実施し、同14年にも再検地を行い寺社領の安堵や家臣らに知行地を宛行った。また居城清須城の改修や支城の整備、河川の堤普請なども実施した。九州攻めや小田原攻めなど秀吉の統一戦争にも参加するが、天正18年秀吉から家康旧領への移封を命じられ、それを拒んだだめ下野国烏山からすやまに減封、尾張を追放された。剃髪して常真と号し、その後出羽秋田や伊予国などに転住し、文禄元(1592)年家康のとりなしで秀吉に召喚されて御咄おはなし衆となり秀吉に近侍した。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いでは、嫡子秀雄が西軍に属したため失領するが、大坂陣後、大和国で5万石を与えられた。寛永7(1630)年死去。享年73歳。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻591ページ