(おだのぶなが)
【古代・中世】
戦国末期に尾張を統一し、後上洛をして天下統一を進めた武将。織田信長の出自は、尾張守護代家の織田大和守に仕えた清須三奉行の織田弾正忠家で、弾正忠家は父織田信秀の時に勢力拡大をし、守護代家を凌駕する存在となっていた。信秀の跡を受け継いだ信長は、大和守家を制し、同じく守護代家伊勢守も抑えて尾張を統一した。さらに守護斯波義銀(しばよしかね)も追放した。永禄3(1560)年桶狭間の戦いで、駿河・遠江両国から三河国に勢力を伸長していた今川義元を討つ。翌4年、信長は三河国賀茂郡高橋地域に侵攻し、梅坪・伊保・八草城などを攻撃する。同地域の三宅氏などの国衆を臣従させ、天正初年頃までには同地域を支配下に治めた。三河国内の織田領となった高橋地域は、その後「高橋郡」と称される。義元から離反した徳川家康と三尾同盟を結んで、三河国との関係を安定化させた。そして美濃斎藤氏を攻め、同10年斎藤氏を追放して美濃稲葉山城に入り、同城を織田領国の拠点とする。翌11年足利義昭からの上洛供奉の要請に応じて入京した。義昭は将軍に就任して室町幕府を再興し、信長は義昭から「天下之儀」を命じられる。しかし反信長勢力も抬頭し、戦国大名の北近江の浅井氏・越前の朝倉氏、大坂本願寺や一向一揆などとの抗争を繰り広げ、また信長に従わない比叡山延暦寺を焼き討ちした。一方、義昭との関係も悪化していき、元亀4(天正元、1573)年義昭を京都から退去させた。その後信長は朝廷から右近衛大将・右大臣に任じられ、天下統一事業を進めていく。美濃・三河では反信長勢力の武田氏が侵攻していたが、天正3年家康とともに長篠の戦いで武田勝頼を破り、以後三河国から武田勢は撤退していく。順調に天下統一を進めていた信長であったが、天正10年京都の宿所本能寺に滞在中、家臣の明智光秀に急襲され自害した(本能寺の変)。享年49歳。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻570ページ
→ 長興寺織田信長像