小野氏

 

(おのし)

【古代・中世】

武蔵国多摩郡横山(東京都八王子市付近)を拠点とする横山党の武士。系図上は古代の小野氏からつながっているので、小野は姓であり、苗字は横山であろう。平安時代末期の小野成任の娘を源頼朝の乳母とする系図もあり、また成任の子の成綱は安達盛長とともに伊豆の流人時代の頼朝に仕えていたという。鎌倉幕府成立期、成綱が尾張守護、盛長が三河守護となったのは、頼朝が特に信頼の置ける者たちをこの地域に配置したことを意味している。京都と鎌倉の中間にある尾張・三河の重要性を、頼朝はよく理解していたのであろう。また、成綱は頼朝の勢力が三河に浸透していった元暦元(1184)年末頃から、高橋荘の地頭として現地を押さえていたようである。文治2(1186)年6月、天皇家領荘園である高橋荘を押領していると後白河院が頼朝に抗議したのは、おそらく成綱の行動に対してである。しかし、成綱はそののちも高橋荘地頭と尾張守護を兼ね、その地位は子の盛綱に継承された。盛綱も高橋荘地頭として猿投社への保護などを行ったが、承久の乱(1221年)では後鳥羽院側に与して尾張川の戦いで幕府軍に敗れ、没落した。高橋荘の地頭職は、一族の中条家長に継承されていく。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻223・251ページ

→ 中条家長