(おふみ)
【古代・中世】
室町時代に浄土真宗・本願寺の蓮如(1415~1499)が布教に用いた消息形式の仮名法語。文字を読めない当時の民衆が耳で聴いて理解できるわかりやすい表現で浄土真宗の教えが説かれたものである。現存する蓮如の御文は200通ほどあるといわれる(真偽未定分もあり、正確な数字は把握しがたい)。最初に書かれたのは寛正2(1461)年3月、近江金森道西に宛てたものである。蓮如はその後、三河や北陸に赴いて布教活動を行い、帰依した門徒(信者)に対して御文を多数、制作して与えた。受け取った地域門徒は集まって文字の読める者が御文を拝読し、他の者がそれを聴くという形式で信仰活動を営んだとされる。蓮如の御文には教えのみならず、さまざまな動向が記されていることもある。例えば、佐々木上宮寺の如光が没した後、三河国とその周辺において教えの理解をめぐる混乱が生じていることを蓮如が憂い、教えを確かめに訪ねてきた三河門徒の浄光と真慶に対して、御文を与えている。なお、この浄光は坂崎(額田郡幸田町)や岩津(岡崎市)に所在したと記されているが、一説には浄覚とも名乗り、もともと西端(碧南市)にいて各地に居を移し、後には淨覚寺(宮町)を開創したとも伝える。ところで、蓮如の没後、その後を継いだ実如(1458~1525)の時代に、御文は本願寺教団の聖教となり、末尾に本願寺住職の署判が付されて僧侶・門徒に与えられるようになった。さらに80通が選ばれて五帖にまとめられた(『五帖御文』)。これらの御文は本願寺門徒の日常的な勤行儀式において拝読され、現在も各地の寺院や在家門徒宅に伝存している。寺院本堂のみならず、在家仏壇(内仏)に設置され、手垢が付き、破れるほどに読まれた。このような実態も含め、御文は550年以上の歴史を持ち、地域に伝わる特徴的な信仰文化である。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻425ページ