(がいざいゆにゅうのじゆうか)
【現代】
第二次世界大戦中とその後の森林の乱伐により、木材不足が次第に深刻になり、戦後復興や昭和30年代の経済成長に障害が出るようになった。そこで政府は昭和38(1963)年に急遽、外材輸入の自由化を決定した。ここでいう外材とは南洋材、米材、北洋材が中心で、多くは直径の大きな大径木で、国産材に比べて柱材や板材がかなり自由に木取りできるため、高値の国産材の入手に悩んでいた国産製材業者たちは、ほぼ一斉にシフトし、外材用の工場に転換した。折しも当時、大都市への人口移動が始まっており、住宅需要が膨らみつつあったため、この政策は多くの関連産業から受け入れられた。日本各地に次々と外材を素材として輸入する木材輸入港が出現し、愛知県でも、名古屋、豊橋、蒲郡などに木材港が生まれ、多くの外材工場と貯木場が集中立地し、輸入大手商社が前面に出た。こうして国産材は圧倒され、山間地域から林業不況が始まった。東西加茂郡では林業関係から過剰労働となった人々は、折からのトヨタ自動車工業株式会社の系列会社による労働力の吸収により大量の失業者の発生は免れたものの、林業や一部農業の放棄を引き起こすことになった。のち外材輸出国が製材品の輸出で付加価値を確保するために原木でなく、付加価値を付けた製材品を日本へ輸出する方式に切り替えるようになり、環境問題もからめ、港湾立地の外材工場は減少することになった。一方、一斉植林の育成林も伐期を迎えたが、国産材価格は外材の影響で安く、また山村の林業労働力は大幅に減少しており、国産材専用工場も少なく、うまく対応できていない。当初、外材輸入の自由化を決定するときに、このような事態に対応すべく、外材輸入の関税率を弾力的に設定すべきであったと思われる。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻270・447ページ、13巻419ページ