(かいふくじほんどう)
【建築】
幸海町(松平地区)。本堂の建立は、寺蔵の「本堂再建立之諸記」(文政10年)に用材集めから詳しく記載されているが、様式的にみると雑作や彫刻を取り付けるまでに安政年間(1854~60)頃まで要したと考えられる。本堂は、入母屋造、本瓦葺、向拝1間(実長3間)付で南面する。本堂は、桁行実長10間、梁間実長9間半の江戸時代末期の中型の真宗本堂である。間取りは、前半の間口7間、奥行3間を外陣、次奥の1間を矢来内とし、外陣の正側三方には、1間幅の広縁と半間幅の擬宝珠高欄付の廻縁を付け、正面中央に向拝と木階4級を設ける。堂後半の中央の間口3間を内陣、両脇の間口2間を余間とし、ともに奥行3間半で、その内の背面半間に脇仏壇と余間仏壇を設ける。余間の外側には間口1間半の飛檐の間を配し、内陣後方には奥行1間の後堂を通している。来迎柱・須弥壇を用いる後門形式をとり、柱は来迎柱2本と内陣廻りの6本を円柱とするほかは面取角柱である。床高は余間を上段、内陣を上々段とする。虹梁は、落縁・広縁境の柱間、外陣外廻りの柱間、外陣内梁行の柱間、矢来内正面の柱間、内陣および余間廻りの柱間、脇仏壇・余間仏壇正面、来迎柱の柱間に渡され、矢来内正面と外陣内梁行と余間仏壇正面の虹梁上に詰組(出組)を載せる。外陣外廻りは柱上に出組斗栱を載せ、板支輪を組む。柱間に双折桟唐戸と明障子を入れる。内陣および余間正面は柱・束上に出組を載せ、中備に蟇股、雲形の板支輪を入れ、内法上に高肉彫欄間を嵌め、柱間に巻障子を吊る。内陣および余間内部にも出組斗栱と蟇股と雲形の板支輪を配す。天井は広縁を鏡天井、外陣と矢来内と余間を小組格天井、内陣を折上小組格天井とし、飛檐の間と後堂を棹縁天井とする。この本堂は、幕末に建立されたものだが、塗装はほとんどなく、角柱を多用するなど復古的な堂で、欄間・蟇股・支輪などの彫刻が優れている。
『新修豊田市史』関係箇所:22巻116ページ