海保忠典  1835~1895 

 

(かいほただのり)

【近代】

奥殿藩(大給松平家)の家臣海保忠重の子として江戸に生まれる。弘化2(1845)年忠重が奥殿代官として赴任する際に、忠典も陣屋へ移住した。嘉永2(1849)年父の跡を継ぎ、同7年代官となり、文久3(1863)年の陣屋替え(陣屋の信濃国佐久郡田野口への移転)をめぐる領民騒動を収めることに尽力した。維新後竜岡藩の公用人、権少参事となり、奥殿の民政を担当した。廃藩後には長野県へ出仕し、東京詰となったが、明治5(1872)年には辞職し奥殿に帰り、和合神明宮(加茂郡和合村)の祠官となった。翌年には猿投神社祠官を兼任し、明治7年まで務めた。その後奥殿の香山学校の初代校長、明治11年には東加茂郡書記に任命され、足助に居を移した。東加茂郡協立病院の設立、小学校教育、高橋古三郎と協力した東加茂郡誌の編さんなどに尽力した後、明治22年辞職した。その後、足助村ほか四か村戸長、足助村助役、九久平学校教員を務めた。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻62ページ