灰釉陶器       

 

(かいゆうとうき)

【考古】

草木灰を原料とする灰釉が施された陶器で、考古学で「灰釉陶器」という場合は、平安時代に猿投窯およびその関連窯業地で生産された灰釉陶器のことを示す。国内における灰釉陶器生産は、9世紀初頭(井ヶ谷78号窯式/黒笹14号窯式期第1段階)に猿投山西南麓に展開する猿投窯で開始されたとみられ、つづく黒笹14号窯式(第2段階)期から本格化した。平安時代の灰釉陶器を文献上の「白瓷」、緑釉陶器等の鉛釉陶器を「青瓷」に充て、両者を「瓷器」とする見解がある。また8世紀後半代には、焼成時の窯内での降灰(自然釉)を作為的に狙ったとみられる須恵器の一群がみられ、それらを「原始灰釉陶器」と呼ぶこともある。灰釉陶器は須恵器に比べ、高火度で焼成(灰釉の溶解温度は1240度以上)されるため耐火度が高く、しかも施釉効果を上げるために灰白色に焼きあがる良質の陶土を必要とした。市域も含めた猿投山西南麓の低丘陵地帯には、こうした条件を兼ね備えた花崗岩あるいは凝灰岩の風化分解物由来のカオリン系鉱物やイライト、モンモリロナイトなどを含む比較的良質の白色粘土の露頭があり、この原料土・陶土の存在が、猿投窯を列島内唯一の灰釉陶器生産への転換を可能とした理由とされる。以後、灰釉陶器は、中世瀬戸窯へと引き継がれていった。

『新修豊田市史』関係箇所:2巻98・153ページ

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