偕楽園

 

(かいらくえん)

【近代】

明治10年代から30年代後半にかけて現在の寿恵野神社(上郷地区)の周辺一帯にあった旧紀州徳川家による開墾地。寿恵野神社の由緒碑(写真)によるとその創始は明治16(1883)年に旧紀伊和歌山(旧紀州)藩主徳川茂承が「論地山」の開墾に先立って神殿を造営したことにまでさかのぼる。偕楽園の園長は紀州藩の基本文献である『南紀徳川史』の編さんにあたった堀内信で、その跡を堀内の実子で皆川家に養子に入った皆川礼二が継いだ。本部のほかに長根支部・吉浜支部・里支部などがあり、養蚕業や茶業なども営まれていた。養蚕業については明治27年に養蚕伝習所を開所し、蚕種の製造や顕微鏡の使用法などを教授していた。また同じ明治27年に堀内は枝下用水の開鑿に尽力していた西沢真蔵から枝下用水の起業権を譲り受け、その進展に努めた。偕楽園の終焉については、管理者の不正から経営が行き詰まり、廃園になったという言い伝えのほか、明治の終わり頃に名古屋の豪商に売却されようとしたため、抗議のために小作人が上京して屋敷の前に座り込んだという逸話などもあるが、定かではない。


『新修豊田市史』関係箇所:4巻347ページ

→ 枝下用水西沢真蔵