(かかく)
【近世】
家の社会的地位や家柄に対する評価。江戸時代の村には、本百姓(高持)と水呑百姓(無高)の身分があり、その中に長百姓(頭百姓)と脇百姓(下百姓)、本家と分家、主家と被官などいくつかの家格があり、明確な上下関係があった。村役人を務める上層農の多くが村の開発を行った草分百姓、武士の系譜をひく、などの由緒を持っていた。これに加えて、領主に対する献金や功績により許された特権を保持していることが家格の高さを示す指標となった。特権には、苗字・帯刀、裃・羽織・袴の着用、玄関・塀の家作、宗門自分一札などがある。これに対して、新家や他地域から移住してきた家などは低い家格に位置付けられることが多かった。分家には、血縁のものと本家に隷属する被官を取り立てた非血縁のものがあるが、いずれも本家が庇護し分家が従い、助けるという関係があった。しかし、江戸時代中後期になると経済的要因から、没落する家、台頭する家があらわれ、領主側も献金などを受けて新たに特権を付与したことなどにより、従来の上下関係が変動し、争論が起こるようになる。この過程で、先祖を祭祀して家の永続を願う「家」意識が形成され、家の存続と家格の維持、あるいは家格の上昇を図るため、家の由緒の根拠として家系図や家の記録が作成された。争論には、特権行使をめぐるもの、本家・分家の立場をめぐるものなどがみられる。苅萱村(小原地区)の赤羽根組・霧雨組の争論は、享保14(1729)年から文化9(1812)年まで3度にわたって繰り返されている。これは私的な苗字の名乗りを発端として、本家相続に対する分家の干渉なども加わり、最初は内輪で解決していたものが、村内外の上層農を巻き込んでの争論に拡大している。また、怒田沢村(足助地区)では、分家が証拠を改ざんして本家を名乗る争論が明治元(1868)年に起こっている。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻216ページ