学童疎開 

 

(がくどうそかい)

【近代】

戦時中、都市部での空襲被害を避け、次代の戦力保持を目的に行われた学童疎開は縁故疎開と集団疎開に分かれる。前者は縁故を頼って児童を農山村部の学校に転校させるもので、昭和18(1943)年秋に始まった。後者は同19年6月に閣議決定された学童疎開促進要綱により、縁故疎開が困難な児童を対象に学校単位で行うもので、半ば強制的に「勧奨」された。愛知県では同年7月に名古屋市が名古屋市学童疎開要綱を定めて集団疎開を実施した。国民学校初等科3年から6年までの児童を対象とし、在籍校が疎開先に分教場を開設することになっていた。市域では8月、挙母町、高橋村、石野村、足助町、猿投村、松平村、高岡村が名古屋市内の8つの国民学校と1つの聾学校から集団疎開してきた児童の受け入れを始めた。人数不明の学校もあるが、昭和20年4月時点で市域には合計1000人以上の児童が集団疎開していたとみられる。宿舎・分教場には寺院が多く充当されたが、校舎の一部が疎開学校の分教場に割愛されることもあった。

『新修豊田市史』関係箇所:4巻646ページ