家政改革  

 

(かせいかいかく)

【近世】

江戸中期以降、年貢増徴が限界に達する一方、諸物価に比し米価安の状態が続いたため、年貢米収入に依存する幕藩領主、とりわけ財政基盤の小さい旗本には、厳しい緊縮財政などの家政改革が求められた。知行所では、家臣や地代官に任命された地元有力者が陣屋に詰め、江戸屋敷廻米や生活資金送金にあたったが、毎月の安定的な送金には、百姓から年貢を前借する先納金や、領民や御用商人に調達金を命じることが常態化していく。こうしたなか、宝暦13(1763)年11月、大島役所石川家が先納金の返済延期を宣言したことで、知行所村々が陣屋へ強訴に及ぶ事件が起きたほか、遠山家明知役所支配の野原村(旭地区)でも、天明6(1786)年3月、江戸からの先納金指示に対し、以前に約した財政緊縮策の明示を求めて納入を拒否するなどの動きがあり、負担を転嫁される村方との対立が生じている。足助役所本多家では、天明期までは、本町の前田三郎左衛門など初期御用達が仕送り人として財政を支えたが、文化年間(1804~18)以降は、本町の紙屋鈴木利兵衛、岩崎の小出権三郎ほか13人が仕送りを分担している。しかし、領主財政への関与も含めたさまざまな要因で経営が不安定になった場合、御用達の役儀は大変重い負担となるため、稲橋村の古橋家のように領主財政への関与を忌避する動きも広がっていった。また、家康200年祭が近づく文化10(1813)年、御三家や松平姓を持つ諸家に基金助成を募って資金運用を図ろうとした松平太郎左衛門家のように、財政的苦境を脱するため時には半強制性を持つ金融講(領主講)を催す取り組みも広範にみられた。このほか、知行所の村による財政の一元管理(勝手方村賄)の実施や、享和年間(1801~04)以降、足助村宇井善右衛門・小出権右衛門に勝手方世話を依頼し、年貢米運用も一任した殿貝津役所内藤家のごとく、資金調達力が期待できる知行所内外の有力者を仕送り人や勝手方賄役(御用達)に任命して財政を委ねる方式も採られた。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻494ページ