(かそうぼ・かそうしせつ)
【考古】
仏教伝来以降、わが国では死者の埋葬方法として火葬が加わった。火葬墓は火葬された遺体(火葬骨)が埋葬された施設で、骨は蔵骨器に収めて埋葬される場合が多い。市域では古代の埋葬施設の調査事例がなく、12世紀になると土葬土坑墓が出現し、ついで13世紀には火葬墓が現れた。保見地区東保見町の徳合院1号墓は集石火葬墓で、13世紀後半の古瀬戸灰釉瓶子と山茶碗を蓋とした古瀬戸灰釉三耳壺の2つの蔵骨器が埋置されていた。同2号墓では礫と古瀬戸製品など、3号墓からは骨片と古瀬戸製品などが出土し、両者ともに蔵骨器を埋設した火葬墓と推定される。保見地区向山古墓にも石塔と集石を伴い蔵骨器が埋設されたとみられる13世紀後半の火葬墓がある。稲武地区桑原町の清泰地遺跡では13世紀を中心とする古瀬戸壺瓶類が多数出土(写真)し、これらも蔵骨器と推定されている。また、足助町平治洞古墓では五輪塔の直下から13世紀中頃の古瀬戸灰釉四耳壺1個が出土し、これも蔵骨器を伴った集石墓の可能性がある。足助地区小町の五倫古墓では宝篋印塔の下から14世紀末~15世紀中頃に位置付けられる古瀬戸灰釉三耳壺の蔵骨器が2個出土している。石野地区の東枝下古墓でも蔵骨器が埋設された14世紀前半の火葬墓が確認されている。一方、火葬施設の場合は、被熱した浅い土坑で両端に煙道を持つものがあり、収骨し忘れた骨片を伴っていることが多い。高橋地区堂外戸遺跡では15世紀の火葬墓3基と火葬施設2基が確認され、火葬施設は長径1.4m前後の楕円形土坑で両端に煙道があり、内側は熱を受けて硬化・赤変している。火葬墓の方も長径1.2m前後の長方形土坑で内側は熱を受け、中から骨片と土師器小皿が出土していて、火葬施設をそのまま墓にしたものとみられる。また、上郷地区渡刈町の水入遺跡では方形土坑に4つ礫を配した遺構が検出されており、これも火葬施設の可能性がある。この他にも、高橋地区の南山畑遺跡で中世末期~近代にかけての火葬墓や火葬施設、石野地区勘八古墓で墓標を伴う18世紀の火葬墓が検出されている。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻439ページ、20巻152・294・350・384・386・458・501・592・610ページ