家族 

 

(かぞく)

【民俗】〈社会生活〉

市域山間部では家族のことをヤウチといった。家族の類型としては、戦前の農村部では伝統的な直系家族が多く、次いで核家族であった。複合家族は戦後になると減少している。昭和40年代になると、市域平野部では急速に都市化が進み、新興住宅地やアパートが増えたため、旧集落とは異なって核家族や単独家族の割合が増加し、都市型の家族形態となっている。かつては家族員数が多く、昭和5(1930)年の桑原(稲武地区)の16人、昭和26年の西岡(高岡地区)の21人、また7夫婦の複合家族の例などがある。家族成員の位置付けは、食事の際、囲炉裏の周りに座る場所などに表れる。戦前の父親は家長として家族員を統率し家業を営む役割があり、家産を一元的に管理したため、家庭内での権限が強く、ほかの家族とは食事や風呂の順番などで別格の扱いを受けた。また家長・戸主や世帯主としてムラや親戚(同族)との付き合いもあった。主婦は家庭内で食事や洗濯、裁縫や衣料の管理、子育てなどの家事仕事を行い、正月にはお節料理を作り、盆、祭りなどの行事の際には家を出た子どもや親戚を接待し、農家では農作業の中心的な働き手でもあった。子どもは井戸の水汲みや、大きくなれば弟や妹の子守や世話、農作業、夜なべ仕事などで家業を手伝った。前林(高岡地区)のある家では親戚を法事に招く際、依頼に回るのは子どもの役割であった。かつての複合家族には、結婚しないオジ・オバ(オバア)と呼ばれた人が含まれていた。西岡(高岡地区)では独身者が家の手伝いをし、跡取りが相続した残りの財産をもらったという。一家の家計の管理の仕方は家により異なるが、下和会(上郷地区)・乙部(猿投地区)・八草(保見地区)などの事例では一家の主人(父親・舅)が掌握し、主婦や嫁はお金に不自由することもあったという。親夫婦と若夫婦の二世帯夫婦が一緒に暮らす場合には寝所を別にすることが多く、ハナレを建てて別居する家もあった。〈社会生活〉

『新修豊田市史』関係箇所:15巻531ページ、16巻491ページ、17巻583ページ