(かなやじょう(ころもじょう)あと)
【考古】
城跡は矢作川右岸の挙母地区金谷町の標高約43mの下位段丘面(越戸面)上にあり、沖積低地に接する段丘崖付近に立地している。延慶年間(1308~10)に築城されたと伝わり、鎌倉・室町幕府の御家人で高橋荘を支配していた室町幕府奉公衆の中条氏との関係が深いとされる。中条氏は天文14(1545)~23年頃に今川氏によって衣城を追放され、没落したという。その後、一時期、織田信長の家臣佐久間信直らの入城が伝えられるが、慶長9(1604)年に三宅康貞が衣(挙母)に入部して衣陣屋を築くと、金谷(衣)城は廃城となったという。城郭は3つの曲輪で構成され、各曲輪の一部に空堀が残存している。平成24(2012)~25年に東端のⅡ郭で発掘調査が実施され、縄文時代~江戸時代にわたる遺構と遺物が確認されている。特に15世紀中葉の溝や15世紀後葉の堀が検出されており、15世紀中葉の溝が埋め立てられた後に掘立柱建物などが築かれていたことが明らかにされた。築城段階を示す14世紀代の遺構・遺物が乏しいため、戦国時代に至って松平氏の台頭に対抗する施設が構築されたものと推測される。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻239・376・553ページ、20巻94ページ