(カマド)
【考古】
竪穴建物における厨房施設としての火処は、縄文時代以降床面を掘りくぼめた炉であったが、古墳時代になると壁体で囲い込むカマドが出現する。カマドには、竪穴建物の壁面に直接構築する造付けカマドと、簡易で持ち運びが可能な移動式カマドがある。造付けカマドは、遅くとも4世紀には朝鮮半島から北部九州に伝わったが、列島各地に姿を現すのは、須恵器などと同じく5世紀中葉~後半のことである。それまでの炉が「焚き火」に近い開放熱であったのに対して、カマドは炎の熱を内部に保持して調整できる強力な火力をもつため、調理に画期的な変化をもたらした。市内の神明遺跡でも5世紀中葉からカマドが出現する(写真上:神明遺跡)が、受容のあり方は集落によって違いが認められる。6世紀のうちには竪穴建物の火処は基本的にカマドに切り替わり、竪穴建物が造られた9世紀代まではその存在が確認されるが、それ以後の発掘調査事例はみられない。これは、住居が竪穴建物から掘立柱建物へ移行するとカマドは地面より上に設けられることになるため、遺構としては残らないからである。カマドは鎌倉・室町時代の絵巻にも描かれており、形状を変えつつも今日にいたるまで広く使用されてきた火処である。移動式カマドには「置竈」「韓竈」「竈形土器」などのさまざまな呼び方があり、5世紀中葉の畿内において渡来人が創出した器物であると考えられている。西三河は移動式カマドが数多く出土する地域であるが、その出現は7世紀初頭である。市内では東保見町の江古山遺跡(写真下)や千石遺跡(千石町)で数多く出土しており、山間部の足助地区小町の大貝津遺跡などでも確認されている。祭祀遺物や製塩土器とともに出土する例が多いため、主に儀式などの特別な場面で用いられたと推測されており、少量ながら9世紀代まで存続している。
『新修豊田市史』関係箇所:1巻300・369ページ、19巻28・256ページ
【民俗】〈住生活〉
カマド(竈)はクド・オクドサンといい、土間の奥にあった(写真:旭地区)。作り方は、まずマダケでおおよその形を作り、その上からスサ(稲ワラを小切りにしたもの)を入れた赤土の泥を塗り固めた。土に瓦を挟みながら作ることもあった。焚口は2つで、1つは釜で飯を炊くとき、もう1つは鍋でお菜や味噌汁を作るときに使った。中央には穴があり、茶釜を置いて余熱で温めた。この形のクドは三つクドと呼ばれた。焚き付けにはゴや風呂のタキオトシ(焚き残り)が使われた。火がつくと小枝、木屑、ワラ、ムギカラ、割木などを焚き、薪の燃え残りは火消し壺に入れてケシズミ(消炭)にした。家によっては大型のクドもあり、湯をわかして味噌作り用の大豆、豆腐作り用の豆乳を煮た。人寄せのときには外に臨時のクドを作ることもあった。戦後になると、土のクドはタイルを貼った煙突付きの西洋クドにとって代わられ、昭和40(1965)年頃、プロパンガスが普及するとクドの利用価値は急減した。〈住生活〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻417ページ、16巻405ページ