釜土池  

 

(かまどいけ)

【近世】

西田新郷にある用水池で、寛文4(1664)年拡張工事が行われ、その面積はほぼ倍増して約8万7000坪、灌漑面積89町弱となり、五箇新郷の成立が可能となった。享保9(1724)年にさらに新池を築き、もとの釜土池を上池、新池を下池と呼んだ。その水は粟寺村・馬場村・上野上村・上野下村・上村新郷・下村新郷・馬場新郷・国江新郷・広畔新郷・焼寺新郷の10か村が利用していた。西と東に取水口があり、東4か村と西6か村で組をつくり、圦の管理や普請を行っている。しかし圦付近の淵浚えは大規模な工事となるため、10か村だけでは負担しきれず、岡崎藩に人足の手当を願い出ることもあった。文化11(1814)年の普請では池懸りの村を含め30か村を超える村々から延べおよそ3000人の人足、天保11(1840)年の普請では40か村からおよそ2500人の人足を集めて工事が行われた。池のある西田新郷では池周辺の利用が進み、さらに竹村の百姓からも池周辺への植出しを求めるようになった。境界の問題へと発展したが、領主の仲介で慶応4(1868)年5月12か村の申し合わせが成立した。

『新修豊田市史』関係箇所:8巻156ページ