(かみごうちょうとのがっぺい)
【現代】
もともと上郷町は明治39(1906)年5月1日に和会村、上野村、桝塚村、畝部村、寿恵野村の5か村が合併して誕生した碧海郡上郷村に始まる。昭和29(1954)年4月の愛知県町村合併計画試案では上郷村は人口1万1000人を数え適正規模とされ合併政策の対象外であった。その頃、挙母市はトヨタ自動車工業株式会社(トヨタ自工)の大発展に対応してその都市機能の向上を目指し、近隣の町村を対象に合併調査を開始し、時には全村合併、時には分村合併の申し入れを行った。しかし上郷村は合併する必然性はなく、その都度申し入れを断った。それ以降もトヨタ自工の発展の恩恵を受け、上郷村は35年には人口1万1300人を数え、36年4月1日に町制施行した。町制施行を議決した36年2月9日の村議会で、富川小一郎村長は『村を町にすることについて』という議案を提出し一体性を強調するとともに、もし豊田市と合併するなら全町でという意志を暗に示した。そして町制施行直後の4月29日の議会全員協議会にて、富川町長は豊田市との全町合併の方向性を述べたので、議会は混乱し合併問題は追いやられた形となった。この後も町税滞納運動や、複数の地区に分かれて分町合併活動で混乱が収まらず、37年1月30日には富川町長は岡田助役とともに、混乱に関する政治責任を取り退職した。37年夏、上郷町は県新地方計画に基づく「西三河内陸工業地域」の工業団地の誘致を決め、誘致工場への支援、基盤整備、計画的な市街地化、住民への公共サービス向上が必要で、大きな町財政負担が予想された。そのため37年2月16日、町議会全員協議会は豊田市への全町合併の意思統一を行い、38年6月11日、全員協議会で合併を決定した。8月16日には豊田市・上郷町の合併懇談会にて、合併協定を決めた。同日、福受地区が岡崎市への分町合併を表明し、8月17日には福受地区住民は岡崎市、県西三河事務所へ分村合併決議書を送付したが、翌日には町の要請を受け入れて要求を撤回した。39年3月1日、豊田市は上郷町との合併によって、人口7万2304人、面積89km2へと拡大した。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻10・14・154ページ