(かみすき)
【近世】
渡辺政香著『参河志』では、加茂郡の産物として松平漬松茸・松平漬蕨・挙母綿と並んで足助紙漉があげられている。野原村上切(旭地区)では少なくとも寛保年間(1741~44)以前から紙漉きが行われており、領主である旗本遠山家は役負担として御用紙の上納を義務づけていた。この御用紙の上納は、本来は紙漉き稼ぎを行う者が負担していたが、彼らの困窮化に伴い上切内の百姓が所持高に応じて負担するかたちに変化し、寛保3(1743)年には御用紙の2割分は実際に紙漉きを行う者が現物の紙を漉き上げ上納し、残りの8割分のうち半分を実際に紙漉き稼ぎを行う者が負担し、半分を村内の各家の所持高割で負担することを決めている。寛保3年の時点で野原村上切の惣百姓のなかで紙漉きを行う者が八兵衛1人であったことからすると、寛保以前は紙漉き業が盛んに行われていたが、次第に衰退していったものと考えられる。なお、紙漉きの作業は冬から春先にかけて農閑期の副業として行われていたと推測される。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻293ページ
【近代】
小原地区の地場産業の一つ。小原地区では明治9(1876)年時点で27戸が紙漉きを営んでいた。原料の良質な楮を近くで採取できる、水が豊富、農閑期の仕事として適当、厳冬期の紙漉きをすることで変色せず、乾燥に冬の西風を利用できる、といった地理的条件がその背景にある。とはいえ、明治初年以降、和紙需要の減少によって製紙業は次第に衰退したため、明治10年に愛知県による振興策が図られ、岐阜県・高知県に伝習生が派遣された。これを機に、小原地区内での技術伝習、煮熟剤の石灰への転換、通年操業の実施、八枚漉きの導入などが模索される。その後も洋紙進出の影響を受けて停滞していたが、昭和恐慌期の農村不況の打開策として副業が重視されるようになると、小原村役場は昭和10(1935)年に小原製紙副業組合に補助金を交付する。組合は付加価値の高い小原工芸紙の生産に取り組み、昭和10年度には汎太平洋博覧会への出品を果たした。
『新修豊田市史』関係箇所:4巻133・552ページ
→ 小原和紙工芸
【民俗】〈環境〉
市域山間部では、冬場の家内仕事として行われた紙漉きが重要な現金収入源になっているところが多かった。特に良質な、原料のカゾ(楮)や紙漉きのネリ(粘剤)となるトロロアオイに恵まれた旭地区、足助地区、小原地区が盛んであった。紙漉きをする家や紙漉き作業場のことをカミヤ(紙屋)といい、紙屋は母屋のマヤ(厩)にあたる場所にあった。紙漉きでは奉書紙なども漉いたが、最も多く生産されたのは森下紙で、これはやや厚手の強靱な和紙で傘紙などに用いられた。荷継ぎ問屋が並ぶ足助の町には森下紙を取り扱う紙問屋があり、ここに集められた森下紙は九久平から船で矢作川河口の湊に運ばれ、そこから全国各地に出荷されたという。森下紙の生産は、旭地区や足助地区では昭和30年代には行われなくなった。一方、昭和10(1935)年頃から工芸和紙が作られるようになり、現在も小原和紙で知られる小原地区では、昭和50年代前半まで森下紙の生産が行われていた。〈環境〉
『新修豊田市史』関係箇所:15巻22ページ