紙屋鈴木家

 

(かみやすずきけ)

【近世】

足助本町の有力商人。紙屋鈴木家は、元祖利兵衛が元禄年間(1688~1704)に大垣内村(旭地区)から足助本町へ移住し、元祖ないしは2代利兵衛の宝永2(1705)年11月には、本町の屋敷地を取得した。同家の中興に位置付けられている3代茂八郎は、土地集積を開始し、味噌の醸造や米・大豆・綿などを扱ったほか、質屋などの金融業も行っている。屋号の由来となった紙については、紙漉き職人への前貸しを行い、販売も行っていた。4代利兵衛玄宗は、足助の小出権三郎家から養子に入った人物で、足助役所本多家の御用達となり、総資産が1万両を超えるなど、同家の再中興に位置付けられている。玄宗の時代には紙の取り扱いを止め、漆を扱うようになった。のちに玄宗は隠居したが、5代茂八郎が死去したため、引き続き同家の経営を担っていた。玄宗の死去後に家督を継承したのが、5代茂八郎の子の6代利兵衛重良で、彼は母子間の不和をめぐるトラブルも経験したが、文化3(1806)年正月に小出家とともに本多家から家中並の格式を与えられ、2月には「仕送り人」となり、本座敷の普請や新田の入手など経営の拡大をはかっている。その一方で、彼の時代の経営は貸付金の損失などで必ずしも順調ではなかった。重良の跡を継いだのが7代利兵衛重孝で、彼は前代に続き屋敷の整備・拡大をはかり、旦過寮の普請も行っている。彼の時代の経営は、天保の飢饉の影響や加茂一揆に関する出費で赤字経営が続いていたが、やがて安定し、晩年には総資産が約2万両に達している。系譜類では重孝の子利蔵重門が8代に位置付けられているが、重門は家督を相続せず、陣屋役人岡直助の不正を訴えたことが咎められ、勝手立ち入りを免じられ、大垣津音蔵と改名し岡崎六供町に隠居している。9代利兵衛(幼名冨作)は早世し、分家の鈴木利助の養子となっていた金八が、本家の家督を相続し10代利兵衛重種となった。重種の当初の経営は、重門が扱った貸付金の整理や、安政地震などの災害の影響で赤字が続いたが、やがて味噌と漆で大きな利益を出し安定した。重種の隠居ののちに明治期の当主となったのは、11代利十郎重篶であった。

『新修豊田市史』関係箇所:3巻365ページ