(かものこおり)
【古代・中世】
市域とほぼ重なる古代三河国の評・郡名。古代の国の下の行政単位をコオリといったが、その漢字表記は大宝令施行までは評で、その後は郡と記したことがわかっている。さらにカモという漢字表記も石神遺跡出土木簡により7世紀末の鴨から、8世紀になると賀茂・加茂に変化したことがわかる。飛鳥の石神遺跡から出土した木簡によれば、鴨評と記した木簡は庚寅(持統天皇4〈690〉年)のものと推測されているものがあるが、現在のところ確実な初見は壬辰(持統天皇6年)のものである。『和名類聚抄』によれば賀茂郡には、諸写本すべて8郷(オオザト)記されており、賀茂・仙陀・伊保・挙母・高橋・山田・賀祢〈弥〉・信茂郷が属していたことがわかる。戸令2条によれば、11里から8里以上は中郡とされ、職員令74条によれば大領1人・少領1人・主政1人・主帳1人置かれることになっており、その下に郡雑任が置かれていた。その郡司(7世紀後半は評司)が郡家(7世紀後半は評家)にいて域内の行政を担当していたと思われるが、その遺構は現在のところ見つかっていない。なお、平城宮から出土した木簡には表面に「・□□史生従八位□/参河国賀×」とあり、裏面に「×郷緑野里物部足」とあり、郡郷里制下のもので霊亀3(717)年5月頃から天平12(740)年初頭までのものとみられ、残念ながら郷(オオザト)名は不明であるが、郷の下の「緑野里」というコザト名がわかる唯一の例である。カモという郡名は、古代の氏族であるカモ(賀茂・鴨)氏と関係があると考えられるが、残念ながらそれを直接示す史資料はない。また、石神遺跡出土木簡により、鴨評には物部・長部、賀茂郡には物部の人名が存在したことがわかっている。
『新修豊田市史』関係箇所:2巻66ページ、6巻379ページ