(かりやはん)
【近世】
三河国刈谷城に藩庁を置いた藩。慶長5(1600)年、刈谷領主水野勝成は、関ヶ原の戦いで徳川方に味方し、戦後引き続き刈谷で知行3万石を認められた。元和元(1615)年、勝成は大和国郡山に転封となり、上野国小幡から勝成の弟忠清が代わって2万石で入封、寛永9(1632)年に三河国吉田藩主に転じるまで藩主を務めた。忠清の転封に伴い、領地を交換する形で深溝松平家の松平忠房が3万石で入封する。慶安2(1649)年、忠房が丹波国福知山に転封となり、伊勢国長島から久松松平家の松平定政が2万石で入封する。しかし、慶安4年に定政は乱心したと見なされ所領を没収され、越後国三条より稲垣重綱が2万3000石で入封、重祥・重富と続く。重祥は遺領の内2万石を相続し、叔父の子に3000石を分知している。重富は元禄15(1702)年に上総国大多喜に転封して阿部正春が1万6000石で入封。宝永7(1710)年、その子正鎮は上総国佐貫に転封。次いで本多忠良が越後国村上から5万石で入封し、正徳2(1712)年に下総国古河に転封。代わって三浦明敬が2万3000石で刈谷藩主となり、明喬・義理と続く。延享4(1747)年に義理が三河国西尾に移ると、領地を交換する形で土井利信が2万3000石で入封、利徳・利制・利謙・利以・利行・利祐・利善・利教と続き、利教の時に明治維新を迎えた。利制の治世、寛政2(1790)年に高掛金調達を領民に賦課したことで一揆が勃発したため、寛政4年に幕府から領地の一部を陸奥国に移す村替処分を受けている。市内において慶長9年段階では高岡地区の大部分と挙母地区西側が刈谷藩領となっている。これが寛延元(1748)年には堤・中田・駒場の3村のみと大幅に減少している。さらに、寛政4年の村替の影響により天保5(1834)年時にはこの3村も2村が陸奥国福島藩との相給となり、残り1村は陸奥国福島藩領になっている。
『新修豊田市史』関係箇所:3巻8ページ