(かわいこうたろう)
【現代】
明治35(1902)年8月1日に東加茂郡富義村(下山地区)に生まれる。昭和15(1940)年7月、下山村会議員となる。昭和24年、羽布ダム建設の動きが生じるとダム建設反対運動の先頭に立ち、昭和26年には対策委員会の委員長に就任した。委員会は、関係機関等に建設反対の陳情書を提出するなどの運動を展開したが、農林省(現農林水産省)当局の意思は固かった。村長らと幡豆郡の現地に赴き、現地で水不足の状況を視察した川合好太郎は、ダム建設絶対反対の気持ちを変化させた。羽布の水没者が我慢すれば、幡豆、碧海の大勢の農民が助かるのだということを説き、水没者に対しては代替地の開墾を約束して、ダム建設へと地元を説得した。水没農家のための代替地開墾については、補償問題の見通しがたった昭和35年、羽布開拓農業協同組合創立総会を開催し、組合長に川合が就任した。この開拓は、昭和46年には入植者数48人、面積43.22haに達した。昭和38年羽布ダム完成、川合はダム建設功労者の一人として表彰を受けた。昭和46年1月16日死去、翌年三河湖岸に頌徳碑(写真)が建立された。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻164ページ
→ 羽布ダム