(かわはらいせき)
【考古】
矢作川右岸の鴛鴨町川原から渡合にかけて広がる弥生時代中・後期を中心とする遺跡。古墳時代~古代・中世までの断続的な居住も確認されている。水田遺構は検出されていないものの、市域で最も早く水田稲作農耕が定着し弥生時代社会へと転換した集落遺跡の一つである。遺跡は矢作川右岸の碧海台地との間に広がる沖積低地の標高約20mの微高地上に立地し、遺跡の基盤はシルト質砂層である。古くから縄文土器や条痕文土器片が採集され、平成9(1997)年~11年にかけて行われた第2東海自動車道横浜名古屋線建設に伴う発掘調査で初めて遺跡の内容が明らかにされた。遺構の時期別推移は、弥生時代中期中葉の土器棺墓や方形周溝墓からなる墓域、中期後葉の竪穴建物群と方形周溝墓からなる集落域、後期~古墳時代初頭の墳丘墓等の墓域、古墳時代中期を中心とする竪穴建物等の居住域と方墳、奈良時代~平安時代にかけての竪穴建物、鎌倉時代の流路、室町時代を中心とする時期の水田と谷状地形、となっている。中でも注目されるのは、弥生時代中期~終末期の考古資料の豊富さである。焼失家屋SB211では中期末の土器の一括資料、終末期の墳丘墓SZ02の周辺からは多数のパレス・スタイル土器を含む後期~終末期の土器が出土している。銅鐸形土製品や動物形土製品・ミニアチュア土器などの土製品、勾玉・管玉の装身具、磨製石鏃・石庖丁・柱状片刃石斧などの大陸系磨製石器を含む石製品、鍬の柄や臼・梯子などの木製品、銅鏃や筒状銅製品の金属製品なども豊富に出土していて、弥生時代人の生活様式の全容がうかがい知れる好資料となっている。また、5点の銅鐸形土製品や銅鐸の舌とみられる石製品の出土は、遺跡で銅鐸祭祀が執り行われていたことを示唆するとともに、遺跡が矢作川中流域の拠点的な集落であったことを物語っている。
『新修豊田市史』関係箇所:1巻157・166・180・183・188・209・219・228・327ページ、18巻118ページ、19巻288ページ