(かわむらていしろう)
【現代】
稲武町名誉町民。財団法人古橋会(現一般財団法人古橋会)初代理事長。明治23(1890)年7月23日、古橋義真・つるの三男として北設楽郡稲橋村(稲武地区)に出生。明治31年7月、岐阜県中津川町大字中津川(現中津川市)の川村伊八の養嗣子となる。第一高等学校を卒業後、同44年9月に東京帝国大学法科大学独逸法律科入学、大正3(1914)年11月に文官高等試験に合格したのち、同4年5月に同大を卒業。6月、警視庁警部に任命され、以後、内務事務官、警視庁書記官、保安部長などを歴任、昭和6(1931)年12月、山形県知事に任じられる。同8年6月依願免官。同13年6月より東洋インキ製造株式会社(現東洋インキSCホールディングス株式会社)社長を務め(16年退任)、昭和18年12月に大東亜醸造株式会社社長に就任した(23年退任)。アジア・太平洋戦争後の昭和20年12月29日、実兄で古橋家8代の道紀が死去すると、その遺言執行者となり、さらに相続人となった実子で三男の敬三(9代源六郎、元総務事務次官)の後見人に選定された。昭和21年の財団法人古橋会の設立に尽力、初代理事長に就任し、以後、歴史民俗資料館である古橋懐古館の開館や古橋家に収蔵される資料の調査研究を目的とした古橋家文書研究会の発足などの社会教育事業のほか、農林業、工業など諸産業に関わる事業を推進、学生寮である義真会館の開設、総合病院としての古橋医療研究所の開院などにも全力を傾け、地域の復興と発展に大きく貢献した。昭和37年3月に紺綬褒章、同43年11月に藍綬褒章をそれぞれ受章、同60年6月17日に名誉町民の称号を授与された。昭和62年6月18日死去。享年96。7月5日の稲武町・財団法人古橋会・古橋家の合同葬儀には町内外から1000人が参列し、その死を悼んだ。後年、古橋家文書研究会の会長であった芳賀登(筑波大学名誉教授)は「川村は一家のことがあっても天下国家の立場から考える人であった。小事が小事にとどまることかをいつも問い直す人であった」とその人となりを記している。
『新修豊田市史』関係箇所:5巻346ページ